「違憲」判決が続く同性婚訴訟〜男女の結婚の意義を矮小化〜
「違憲」判決が続く同性婚訴訟〜男女の結婚の意義を矮小化〜

3月7日、名古屋高裁が、同性婚を認めない民法・戸籍法の規定について「法の下の平等」や「個人の尊厳」を定めた憲法に違反するとの判断を示した。
高裁判決は、札幌、東京(1次)、福岡に続き、名古屋が4例目。すべて同性婚を認めないのは「違憲」との判決だ。地裁の6判決でも、「合憲」は大阪地裁のみであり、同性婚を認める流れが大勢を占める。
「生殖」との結びつきを否定
国川は民法・戸籍法の婚姻規定について、「子を産み育てる男女の法的保護」が目的であり、合理性があると主張してきた。
一連の高裁判決は、主流であったこの考え方を否定し、婚姻を「人と人との間の自由な結びつき」(札幌高裁)という単なる個人間の結合に矮小化(わいしょうか)するものである。
性的な関係に限らず、人と人とは自由に結びつき、別れる。友人、仲間、同志、恋人…、経済的その他の理由で共同生活を営むこともある。自由主義国家であって、これらの私的な人間関係は基本的に自由であり、届け出も許可も必要ない。
ではなぜ、性的結合を伴う男女の関係だけに、あえて「婚姻制度」という枠組みを設けたのか。そこに「生殖」が大きく関わっていることは間違いないだろう。
原始的な社会にも男女間のルールは存在し、父親との摘出関係を明確にする機能を持っている。母親と子供の保護について、責任の所在を明確にするためだ。人類学でも、類人猿から人類に分岐する上で「一夫一妻制」が大きな役割を果たしたという説が最も有力である。
一方で現代日本の最大の課題は、非婚・少子化および子供の成長環境の悪化だ。「男女が結びつき、二人で子供を育てる」という人類誕生以来、連綿と続いてきた営みが危機に瀕しているのである。
今、必要なことは、男女の婚姻の価値を再評価し、立て直すことであって、その意味を矮小化し、曖昧にすることではない。
「男女の結婚」そのものに価値がある
男女が1対1で尊重し合う婚姻は、男女が協力して社会を営む基礎ともなる。
我々が異性を本当に深く理解し、一つになることの難しさと大切さを学ぶのは夫婦関係においてだ。子どもたちも、仲睦まじく、信頼関係で結ばれた父母の姿を見ながら、男女の関係のあり方を学ぶ。
逆に米国では「異性と交際がなく、結婚を諦めた独身者」が「インセル」と呼ばれ、女性蔑視のコミュニティを作り、無差別殺傷事件を起こすと問題視されている。
「妻(夫)が今の私を作ってくれた」とは、長年連れ添った夫婦から良く聞く言葉だ。男性と女性の結婚は、人間性の成熟にとっても不可欠な制度なのである。