「勝共」|「勝共」の本質を理解し、次の半世紀へ
「勝共」|「勝共」の本質を理解し、次の世紀へ

「『勝共」とは何か。/勝共連合はこれまで、何と闘ってきたのか?/日本を守り抜くために、命を懸けた若者たち/戦後日本の知られざる『愛国運動』の歴史、その全貌がついに明かされる…」
UPF-Japanの友好団体である、政治団体「国際勝共連合」編著の書籍『勝共連合かく闘えり――半世紀の歩みとこれから』(世界日報社)が出版される。冒頭の文章は、その帯文(表紙)だ。その裏には、「安倍晋三元首相の命日に合わせて緊急出版!」と明記されている(※勝共連合のウェブサイトによると、6月30日頃からAmazonなどで購入できるという)。
勝共運動の本質
「勝共連合はこれまで、何と闘ってきたのか?」。その歴史的事実は、364ページに及ぶ本書に余すことなく記されていることだろう。本稿では「『勝共』とは何か」という、もっと根本的な問いについて考えてみたい。
「勝共」の「共」は、「共産主義(マルクス主義)」を意味するが、よく言われるように、勝共とは単に共産主義に反対する「反共」とは違う。理論と実践において共産主義(者)に勝つとともに、代案を提示し、共産主義者をも救い出そうという思想・精神だ。さらに勝共の本質をよく理解するには、勝共連合の創設者であり、「世界一の勝共指導者」(韓鶴子UPF総裁)と言える、文鮮明総裁(UPF共同創設者)の思想と生き様を理解しなければならない。
また「勝共」を理解する前提として、共産主義の本質もよく理解する必要がある。文総裁は「共産主義思想の本質は、神への反逆の思想であり、憎悪と無神論の思想」だと訴えてこられた(文鮮明『平和を愛する世界人として 増補版』)。
共産主義が世界的に猛威を振るっていた1970年代、文総裁はまさに命懸けで、次のように宣布された。「神様を殺そうとする不俱載天の怨讐(おんしゅう)、共産主義は、神様を父と呼ぶ統一教会員とすべての宗教人たちが孝と誠と信念をもって撃退しなければならない」(韓国ソウルでの「救国世界大会」、1975年6月7日)
勝共連合の「闘い」を理解する上でも、文総裁が何と闘ってきたのかを知らなければならない。
一方、文総裁の次のような姿勢も忘れてはならない。「私は共産主義の思想と理念に反対しているのであって、その人(共産主義者)たちを憎んだのではありません。神様は共産主義者までも一つに抱きかかえることを願われる方です」(『平和を愛する世界人として』)
前述の「救国世界大会」でも、「愛と真理によって彼ら(共産主義者)に勝利し、誤りを悟らせ、最後は彼らを兄弟として受け入れなければなりません」と呼び掛けている。文総裁の「勝共」思想の中心には、徹頭徹尾「神」がおられ、人類の親であり幸福の根源であるという神を大前提として、共産主義(者)と対峙してこられたのである。文総裁の考えは、次のメッセージに集約されていると言えよう。「私の勝共思想は、共産主義者を葬る思想ではなく、彼らを生かす思想、すなわち人類救援の思想です」(北朝鮮訪問後の中国・北京到着談話文、1991年12月7日)

勝共運動を支持する有識者の声
これまで数多くの有識者が「勝共運動」への支持を表明してきた。勝共連合の富山支部長も務めた黒坂富治・富山大学名誉教授もその一人だ。同氏が共産主義について本質的な指摘をしているので、やや長くなるが引用したい(1989年頃の談話)。
「組織としての(日本)共産党は、このまま放っておいても崩れ去っていくだろう。/しかし、共産主義の問題の本質はそこではない。/共産主義の危険性は、神や仏を尊ぶ心を人間から奪い去ってしまうところにある。/失われたこの人間の本性を取り戻さない限り、共産主義との闘いは果てしなく続いていくだろう。/人類の最終的な闘いは、桁ち行く共産党との闘いではなく、己の心との闘いなのである。/見える敵よりも、見えない悪との闘いの方がはるかに難しい。(中略)しかし私は、命あるかぎりこの勝共運動に挺身していくと心に決めている。/国際的な勝共運動の重要性は、今後ますます高まっていかざるを得ないのだから」(福田信之編『21世紀の希望と統一運動』)
現在も、勝共連合やその友好団体である家庭連合(旧統一教会)に期待する保守派の声がある。
德永信一弁護士は、「LGBT法の背後にある文化マルクス主義に変容した共産主義という21世紀の『妖怪』と戦う旧統一教会の姿勢は、今後の保守の運動にとってますます重要になるだろう」とエールを送った(「月刊Hanada」2023年11月号)。
勝共連合創設から「半世紀」(今年で57年周年)。「これから」の勝共連合(運動)がどうあるべきか、『勝共連合かく闘えり』がその道標となることだろう。文総裁の50年前の訴えが、今も木霊(こだま)している――「統一教会員たちは、勝共戦線の最前線に召された神様の闘士であり、神様とサタンの闘いにおいて先頭に立った大将であり、旗手であることをはっきりと知らなければなりません」(救国世界大会)