いまさら聞けない「日本基督教史」

いまさら聞けない「日本基督教史」 第18回

遠藤周作の『沈黙』と『銃と十字架』

text by 魚谷俊輔


『沈黙』は大変有名な小説です。あらすじは以下のような内容です。イエズス会の宣教師ロドリゴという人が主人公で、彼はキリスト教宣教のために禁教下の日本に潜入します。彼は隠れキリシタンたちに歓迎されますが、やがて長崎奉行所に追われる身となります。ロドリゴはこの絶体絶命の状況の中でひたすら神の奇跡と勝利を祈りますが、神は「沈黙」を通すのみでした。やがて彼は捕えられ、自身が棄教しない限り日本人信者の拷問を続けるという究極の選択を迫られ、ついに踏み絵を踏むことを受け入れてしまいます。このように、キリシタンの「転び」をテーマとした小説が、遠藤周作の『沈黙』です。とても重苦しいテーマの小説です。

ここで中心になっているテーマは「神の沈黙」ということです。キリスト教徒ですから、神が救ってくれるに違いない、神が奇跡を起こしてこの迫害の中から信徒たちも自分も救われるんだと信じて祈り続けるけれども、神は何もしてくれない。ただずーっと「沈黙」しているという状況の中で、絶望して信仰を失っていくという話です。

しかもこの信仰の棄て方が、自分が拷問されて、その肉体の痛みに耐えかねて信仰を棄てたのではないのです。日本の代官はわざと司祭を拷問しないで、司祭が導いてきた信徒たちを目の前で拷問して、「あなたが信仰を棄てれば、この拷問をやめる。しかしあなたが信仰を棄てなければ、あなたの愛するこの信徒たちをずーっと拷問し続ける」という、非常に苦しい二者択一を迫られるわけです。すなわち、私が信仰を保てば、この可哀想な信徒たちは拷問で苦しみ続けなければならない。「神よ救いたまえ」と祈っても神は救ってくれない、沈黙したままである。だから自分が信仰を棄てるしかないという決断をするわけです。わざわざキリスト教を伝えるためにこの日本の地まではるばるやってきたにもかかわらず、その信仰を棄てざるを得なかったロドリゴという宣教師の話です。これが『沈黙』という小説です。

遠藤周作の小説をもう一つ紹介しますと、『銃と十字架』という作品があります。これは、17世紀に実在した日本人キリスト教徒であるペトロ・カスイ岐部という人の生涯をもとにした小説です。ですから、かなり事実に基づいています。豊後国にキリスト教徒の両親の間に生まれた岐部は、13歳で有馬のセミナリヨに入学します。そして1614年にキリシタン追放令によってマカオへ追放された岐部は、司祭になるべく独力でローマのイエズス会本部を目指します。マカオからインドを経て、単身で陸路を歩いてローマに行くわけです。そして、ローマへ行く途上、日本人としてはじめてエルサレムを訪問しました。ローマに到着して、「自分は日本から来た。イエズス会士になりたい」と志願して、実際にイエズス会士となります。そして、キリスト教の神学を本格的に勉強して、司祭として叙階されます。

もしこのまま岐部がローマに留まっていれば、生涯キリスト教徒として平安な生活を送ることができたはずです。しかし、彼は「日本が私を待っている。日本に帰って宣教をしなければならない」と決意するわけです。当時、日本の状況はものすごく厳しいということはあらゆる報告から分かっていましたから、日本に帰ればほぼ間違いなく捕まって殉教するということは分かっていながら、それを覚悟して、もう一度日本に戻り、1630年に16年ぶりの帰国を果たすわけです。

彼は日本で9年間活動して、1639年に捕えられて、「穴づり」の拷問に遭います。ですから、ある意味で予定されていたように捕まり、棄教の拷問を受けるわけでありますが、最後まで信仰を棄てずに、耐え抜いて殉教していくという物語です。このように遠藤周作は、拷問によって転んでしまったキリシタンと、転ばなかったキリシタンの両方を描いているわけです。このような小説を読んでいただければ、当時の人々にとって信仰を持つということがどれほど厳しいことだったのかということが、少し分かっていただけるのではないかと思います。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

遠藤周作の『沈黙』と『銃と十字架』

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