いまさら聞けない「仏教の基礎知識」

いまさら聞けない「仏教の基礎知識」 第21回

「末法思想」と「浄土信仰」

text by 魚谷俊輔


平安時代中期になりますと、日本の仏教にある大きな変化が起こってきます。「末法思想」と「浄土信仰」の出現です。平安時代中期になりますと、僧の世俗化が進み、天変地異も頻発したことから、人々は「末法の世」であることを強く意識するようになりました。この「末法の世」とはどういう考え方であるかというと、お釈迦様が亡くなってから2000年経つと「末法の世」に入ると信じられていたわけです。当時の計算では永承7年(西暦1052年)に末法の第一年を迎えるんだと信じられていました。この計算法で行くとお釈迦様が紀元前9世紀くらいの人物になってしまい、いまの学問的定説とはだいぶ違うのですが、当時の計算法ではこのように考えられていたので、1052年が近づいてくるとだんだん末法の雰囲気が当時の日本に満ちていったわけです。

938年頃には空也という人が都の市中で念仏信仰を広めました。985年には源信が『往生要集』を著しました。このようにして、浄土信仰と末法思想が民衆の間に広まっていくことになります。では浄土信仰とは一体何かといえば、念仏を唱えることによって、阿弥陀如来の極楽浄土に往生できるという信仰のことです。もともとあった仏教とどこが違うかというと、そもそも仏教は修行をして悟りを開くという自力型の宗教でした。ところが末法になりますと、まともに修行ができる人はいないし、僧も堕落しているという状況ですから、ましてや一般大衆は絶望的だということで、ここから救われるのに、自力で救われるということはほぼ考えられなかったわけです。そこで、なにか簡単な行をする、たとえば念仏を唱えるというような一つの行をすることによって、他力で救済されるという考え方が受け入れられるようになったわけです。つまり、このときから鎮護国家の宗教から、個人の救済を説く民衆の宗教に仏教が変わっていったということです。

平安中期に現れた有名なお坊さんに源信という人がいます。この人は比叡山で天台教学を学んだ人ですが、高位の僧になるよりも、仏の教えを学びたいと遁世しました。彼は山を下りて、念仏と写経の日々を送り、43歳で『往生要集』という本を書きます。この『往生要集』とは何であるかというと、仏教にはたくさん経典がありますが、160余りの経典から極楽浄土について書いてあるところを抜き出し、さらに地獄について書いてあるところを抜き出したわけです。それを分かりやすくまとめて、極楽浄土はこんなところですよ、地獄はこんなところですよ、と教えたわけです。『往生要集』が有名になったのは、その冒頭に生々しい地獄の様子が書いてあったからです。そして、この地獄を逃れるためには、念仏しかないと勧めました。こうして彼は浄土教が発展する基礎を築きました。それが後に法然や親鸞に影響を与えました。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

㉑「末法思想」と「浄土信仰」

新着記事

  1. 世界思想Vol.61

  2. 世界思想vol.60

PAGE TOP