いまさら聞けない「日本基督教史」

いまさら聞けない「日本基督教史」 第29回

宗教団体法と日本基督教団

text by 魚谷俊輔


内村鑑三が死んだのは1930年です。その翌年の1931年に満州事変が勃発して、このときから日本は軍国主義への道を歩み始めるようになります。すると政府はキリスト教に対して疑念を持つようになります。なぜならキリスト教は敵国の宗教であり、「鬼畜米英」の宗教ということになるからです。そして太平洋戦争に向かって行く過程において、次第に宗教に対する締め付けが激しくなっていきます。1939年には、「宗教団体法」という法律が作られます。これは宗教がすべての面において政府の支配の下に入るような、実質的な宗教統制法でした。

カトリック教会はバチカンとの関係を絶ち、「日本天主公教教団」として再編されることによって外国の勢力と分断され、すべての宗教が政府にコントロールされるようになります。その中で1941年に「日本基督教団」が誕生します。これはいまも存在しておりますが、当時34個バラバラに存在していた日本のプロテスタントの諸教派が、政府の圧力によって統合させられて誕生したものです。

これらのプロテスタント諸教派は、そもそも外国からさまざまな教派の宣教師がやってきて、それぞれ別々の教会を立てたわけです。けれども、政府がキリスト教を統治するために「どうせプロテスタントというのは大同小異なんだから、全部1つにまとまりなさい」ということで、圧力を掛けて1つの教団にしてしまったわけです。

ですから、上の表のようにもともとあった教団の流れに従って第1部から第11部まで分かれているわけですが、このような教団が寄り集まって1つの宗教団体にまとめさせられて、その代表を立てて政府と折衝をするという形になったわけです。信仰の内容から見れば、そもそも信じる内容が異なる教派を全部1つにまとめて、1つの宗教団体になりなさいということですから、とんでもない話です。しかし、キリスト教会は生き延びるためにこれに屈服してしまったのです。日本基督教団が設立されたということは、いわばナショナリズムによる宗教統制に、日本のキリスト教会が戦わずに屈服して、白旗を上げてしまったということを意味するわけです。これは、日本基督教団がその誕生からして罪を背負って生まれてきたという意味において、日本基督教団の「原罪」といってよいのではないかと思います。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

宗教団体法と日本基督教団

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