いまさら聞けない「日本基督教史」

いまさら聞けない「日本基督教史」 第12回

高山右近の信仰

text by 魚谷俊輔


高山右近は1552年から1615年まで生きた人で、最も優秀で、かつ模範的なキリシタン大名であったといわれる人物です。この人は摂津高山に飛騨守の長子として生まれたのですが、父親がまずキリスト教に改宗します。そして12歳のときに彼も洗礼を受けます。22歳のときに大阪・高槻の城主になったということですから、非常に優秀だったことになります。信仰においても、武士としての実力においても、非常に優れた模範的なキリシタン大名といわれただけあって、彼は戦争でも活躍して、秀吉に信頼されました。もともと2万石の城主であったのが、明石6万石の城主に抜擢されるほどの出世をしました。

ところが、秀吉が途中からキリスト教に対する態度を変えて、バテレン追放令を出しました。すると側近である高山右近がキリスト教を信じているのは都合が悪いということで、1587年に秀吉から右近に棄教命令が出されます。これを彼は拒否して、信仰は棄てませんということで、武士としてのすべてを捨てて前田利家の客人になるわけです。そして1614年の家康の禁教令によって国内にいられなくなり、国外追放となってマニラに渡り、最後はマニラで死んでいくことになります。

この高山右近という人は、キリシタン大名の中でも類稀なる信仰を示した人の一人です。彼は棄教を促す秀吉の使者に対して、以下のように答えたと言われております。これはフロイスの『日本史』という著作からの引用です。「キリシタンをやめることに関しては、たとえ全世界を与えられようとも致さぬし、自分の(霊魂の)救済と引き替えることはしない。よって、私の身柄、封禄、領地については、殿が気に召す様取り計らわれたい。」自分の魂の救済が第一であって、たとえ大名としての身柄、封禄、領地を失ったとしても構わないということです。これらは普通なら大名にとっては命よりも大切なものですが、それを奪われても構わないので、自分の信仰は棄てないと答えたわけです。

これはまさに、マタイによる福音書の16章26節の「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」というイエス様のみ言葉を実践したものですし、イエスが荒野で受けた第三の試練、すなわち「全世界を与えるから私を拝みなさい」というサタンの誘惑を退けたのと同じ意味になります。この世の栄耀栄華を取るのか、それとも神にある魂の救済を取るのかを問われたときに、「私は魂の救済を選びます」と言った、そういう類稀なる信仰を見せた人が高山右近だったわけです。

これは個人としては大変立派な信仰ですが、この高山右近の態度が、豊臣秀吉を逆上させたわけです。キリシタンと呼ばれる者はこんなにも頑固なのか。これは徹底的につぶさなければならない、という認識を強くしたため、キリシタン迫害が始まったということになります。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

高山右近の信仰

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