いまさら聞けない「日本基督教史」

いまさら聞けない「日本基督教史」 第30回

戦時下のキリスト教

text by 魚谷俊輔


日本基督教団は、しばしば日本の戦後のキリスト教徒から、第二次大戦中に歴史を誤導したと批判されます。すなわち権力に順応し、その暴力と残虐行為を宗教的な言葉をもって正当化しようとしたと非難されるわけです。たとえばアジアの教会に『日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰』という手紙を送っており、それは日本の軍事的拡大を歴史の進歩であると解釈し、神の意志であるとして正当化しているのです。

当時、朝鮮の教会は日本から神社参拝を強要されていました。そういう教会に対して日本基督教団から手紙を送っているのですが、その手紙の内容がは「世界を救済できるのは天皇を中心とした日本の『国体』であり、それを体現したのがわれわれ日本基督教団なので、大東亜共栄圏の建設という目標のために我々を受け入れて言うことを聞いてくださいね」ということを、同じクリスチャンとして訴えているのです。日本のキリスト教徒は完全に良心を失って、軍国主義の中に巻き込まれて、政府の手先になってしまったということです。ドイツでは激しくヒトラーと闘ったクリスチャンがいました。しかし日本のキリスト教は闘わないで、ほぼ全体が屈服してしまったわけです。

戦争中は、全ての宗教的グループが思想的な武器として政府に利用されました。全般的に見て、日本のキリスト教は満州事変のときに政府を支持しました。さらに、日本のキリスト教は日本政府による韓国キリスト教への弾圧に対して、何の抗議もしませんでした。彼らは韓国教会と苦しみを共にすることができなかったのです。

若干の例外はいました。美濃ミッションという小さな教団が反発したとか、あるいは矢内原忠雄という人物がいます。この人は内村鑑三の弟子で、当時の代表的なクリスチャンの一人です。内村の流れを「無教会主義キリスト教」とか「無教会運動」といいますが、その中には政府の軍国主義を批判した人もいました。この矢内原忠雄は東大の教授だったのですが、政府に対する批判的な言説が原因で東大教授を辞めさせられています。そのように一部抵抗した人はいましたが、おおむね政府の圧力に屈してしまっていたということになります。ちなみに矢内原忠雄は終戦後に東大教授に復帰し、1951年には東大総長に選出されています。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

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