いまさら聞けない「日本基督教史」

いまさら聞けない「日本基督教史」 第13回

秀吉から家康の時代へ

text by 魚谷俊輔


豊臣秀吉がキリシタンに対してなした酷い仕打ちの一つが、長崎26聖人の殉教です。この事件のきっかけの一つには、1593年にフランシスコ会という別の修道会が日本宣教を開始したということがあります。それまでは日本宣教はもっぱらイエズス会がやっていました。ところがフランシスコ会というカトリックの別の修道会が日本に対する宣教を始め、1596年に「サン・フェリペ号事件」が起こります。これは、マニラからスペインに向かうスペイン船サン・フェリペ号が、台風で日本に漂着したことに端を発します。彼らは日本で拘束された際に、日本側を威嚇して、世界地図を見せながら「スペインがどんなに大きな国か知っているか。スペインが日本を征服するぞ!」と言い放ち、それが秀吉に報告されて、秀吉が激怒して、長崎26聖人の殉教を引き起こしたと言われています。

その当時、日本にいたキリシタンの中でフランシスコ会の人々を中心として京都や大阪で捕縛し、長崎まで連れて行って、見せしめとして十字架の刑で合計26名を殺したという事件です。長崎に行きますと、日本26聖人殉教地の記念碑があって、私も以前そこに行ったことがあります。殉教者の中には小さな子供も含まれていました。これが日本においてキリスト教に対して最初に大きな「NO!」を突きつけた事件となったわけです。

次に、徳川家康とキリスト教についてお話しします。豊臣秀吉がキリスト教を迫害したことは確かに事実でありますが、秀吉の迫害というのは気分や感情に基づくもので、いわゆる徹底的にシステマティックに迫害したわけではありませんでした。それに比べて徳川家康は、極めて徹底的にシステマティックにキリスト教を迫害した人物だということになります。家康はキリスト教は自分の日本支配と相容れないものであると認識していました。それに加えて、新興のオランダとイギリスが、先にやってきたポルトガルとスペインには日本を侵略しようという意図があると中傷しました。それによって家康はポルトガルとスペインに対して疑心暗鬼となって、その背後にはキリスト教があるということで、1614年に全国にバテレン禁止令を出して、キリスト教を禁止してしまいます。このときから、キリスト教に対する徹底した組織的弾圧が始まりました。そして1614年から1646年までの間に、4045名の殉教者が出ました。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

秀吉から家康の時代へ

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