いまさら聞けない「日本基督教史」

いまさら聞けない「日本基督教史」 第22回

明治初期のプロテスタントの発展

text by 魚谷俊輔


日本のプロテスタント教会は、1872〜1889年にかけて全般的に拡大し繁栄しました。改宗者は急激に増え、未来の日本プロテスタント教会の大まかな輪郭は出来上がりつつありました。この17年間で、日本のキリスト教徒の人口は約3万人に成長しました。成長して行く教会の行く手を阻むような重大な障害はないかに見えたわけです。これが初期におけるキリスト教と日本の「幸せな出会い」ということになります。最初の十数年間はキリスト教の伝道は順調に進んだということです。

この明治初期のキリスト教躍進の背景としては、3つの要因を挙げることができます。まず、宣教する側が大変熱心であったということです。当時、アメリカからたくさんの宣教師が来ましたが、当時のアメリカは「大覚醒」といって、信仰復興運動が熱烈に起こっているときでありました。ですからアメリカ国内で信仰復興の集会が行われ、伝道が行われ、その宣教熱が世界に向かって行きました。そこに「日本が開国した」というニュースが伝わり、多くのアメリカのクリスチャンたちが、未開の地・日本に宣教にやってきたわけです。そのように宣教する側の熱心さを挙げることができます。

日本伝道の志に燃えるプロテスタントの宣教師たちは、すでに禁教下で英語や洋学の教育者として来日し、日本の若者を伝道していきました。明治の初期しばらくはキリスト教は禁教だったのですが、開国はしたので、英語を教えるアメリカ人の先生は歓迎したわけです。その人たちは表向きは英語の先生ということで日本に入ってきて、密かに自分の弟子たちにキリスト教を教え始めたということです。

初期のキリスト教の集団には「バンド」という名前がついていますが、バラやブラウンの英語塾から横浜バンドが生まれたとか、ジェーンズの熊本洋学校から熊本バンドが生まれたとか、札幌農学校のクラーク博士の影響で札幌バンドが生まれたというように、教育者たちが若者たちにキリスト教を教えるという形で最初の伝道はなされたわけです。

日本のプロテスタント発祥地としての三大バンドということで、横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドがよく語られます。それぞれ代表的な指導者として、植村正久、海老名弾正、内村鑑三などの名前が挙げられますが、この表にあるような教派を背景として、それぞれの教団や学校を創っていきました。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

明治初期のプロテスタントの発展

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