いまさら聞けない「日本基督教史」

いまさら聞けない「日本基督教史」 第1回

日本基督教史を学ぶ意味

text by 魚谷俊輔


今回から、「いまさら聞けない日本基督教史」と題する新しいシリーズの投稿を開始します。これまで「いまさら聞けない仏教の基礎知識」というシリーズを30回にわたって投稿し、「いまさら聞けない神道の基礎知識」というシリーズを27回にわたって投稿してきましたが、その続きとお考えください。キリスト教は神道や仏教とは違って、まだ日本の伝統的な宗教という位置を確立しているとは言えませんが、少なくとも400年以上前に日本に伝えられた宗教であり、多くの迫害を受けても受け継がれ、現在でも国民の1%近い人々が信じている宗教です。そしてキリスト教はその信者の数による直接的影響力以外に、大学や病院を設立したり慈善事業を行ったりすることを通して社会的影響力を持ち、また西洋文明への入り口としての文化的影響力を持つ宗教であるという意味で、その歴史を扱う価値があると思われます。

日本は東アジアの中では最も近代化され西洋化された国でありながら、いまだに「キリスト教国」と呼ぶにはほど遠い状況にあります。キリスト教は日本においては依然として少数派であり、「バタ臭い」という一般的な言い回しに表現されているように、外国の宗教とみなされています。日本のクリスチャン人口は常に1%以下であり、明治以降この数字を越えたことは一度もありません。

私は最近の若い人に講義をすることがありますが、この「バタ臭い」という言葉は既に死後になっていて、通じなくなっています。「バタ臭い」という言葉の前提にあるのは、日本人の朝食というのはご飯とみそ汁であり、西洋人はトーストにバターを塗って、コーヒーの香りなどをさせながら朝食を食べるということがあります。そのバターの匂いが日本人の嗅覚からすると臭いということで、「バタ臭い」は西洋からやってきたものに対する違和感を表す言葉としてあったのです。

ところが最近の日本人は朝食にご飯とみそ汁ではなくて、トーストにバターを塗りながら食べるようになり、バターが臭いという感覚がないので、「バタ臭い」という言葉は死語になったわけです。そのぐらい私たちの外面的なライフスタイルは西洋化されているわけですが、それでは西洋文明の中心であるキリスト教も受け入れたかというと、そうではないのです。つまり、内面的な文明であるキリスト教はほとんど受け入れないで、1%以下にとどまっている。どうしてこうなっているのか、ということが非常に大きな疑問であるわけです。すなわち、日本のキリスト教宣教が成功しなかったのは何故なのかを、これから考えていきたいと思います。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

日本基督教史を学ぶ意味

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