#21 最後の迫害

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いまさら聞けない「日本基督教史」

#21 最後の迫害

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UPF-Japan事務総長 | 魚谷俊輔

1964年生まれ。千葉県出身。東京工業大学工学部化学工学科卒。95年に米国統一神学大学院(UTS)神学課程を卒業。2000年に日本に世界平和超宗教超国家連合(IIFWP)が創設されるにともない、事務次長に就任。05年より、国連NGO・UPF-Japanの事務次長、17年8月より同事務総長。

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ペリーの来航によって日本が開国したと言っても、徳川幕府はキリシタン禁制を棄てたわけではありませんでした。当時の状況としては、日本に居留している外国人がキリスト教を信じるのは構わないけれども、日本人がキリスト教を信じることは禁じられていたわけです。

ですから、大浦天主堂のプチジャン神父のもとにキリシタンたちが通っていることが分かると、日本の信徒たちに対する最後の迫害が始まります。これが1867年の「浦上四番崩れ」と呼ばれるものです。多くの浦上の信徒たちが捕えられ、拷問され、流罪になったわけです。この事件の翌年に明治維新となっておりますので、「最後の迫害」「最後の殉教者」ということになります。

その後、明治政府が立つと1872年11月から岩倉具視を中心とする使節団がいわゆる不平等条約を改正する交渉のため米国と欧州諸国を訪問します。しかし、行く先々で彼らは「キリシタンを迫害し、信教の自由を認めない野蛮な国とは条約を結べない」と非難されました。このころ明治政府は江戸幕府の方針を継続しており、明治になってもキリスト教の禁教は解かれていなかったわけです。しかし海外に出て初めて、これを改めないと条約を結んでもらえないということに気付いて、1873年2月24日に、太政官布告によってキリシタン禁制の高札が撤去され、ようやく禁教令が廃止されました。

結局、日本においてキリシタンに対する迫害が止んで、信教の自由が認められるようになったのは、日本人自らが「信教の自由」に目覚めたのではなく、外圧、すなわち外国からの批判によるものだったわけです。

キリシタン時代をキリスト教と日本人が出会う1回目のチャンスであったとすれば、2回目のチャンスは明治維新から第二次世界大戦の終戦までの期間になります。1873年に明治政府が基督教禁止令を撤廃し、1889年には大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されました。この明治憲法は、ヨーロッパの憲法を真似して作られたものなので、基本的に近代憲法の要件を備えなければいけないということで、宗教の自由は第28条で保障されていました。

このときから、憲法において宗教の自由を保証する国に日本は一応なったということになります。江戸時代に比べれば、キリスト教を広めることのできる社会的環境は整いましたので、日本に多くのプロテスタントの宣教師がやってきて、宣教を始めるようになります。

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