いまさら聞けない「日本基督教史」

いまさら聞けない「日本基督教史」 第11回

豊臣秀吉によるキリシタン迫害

text by 魚谷俊輔


先回は「天正遣欧少年使節」がヨーロッパに行っている間にキリスト教を取り巻く環境が大きく変わり、迫害が始まったことを紹介しました。キリシタンに対する迫害を始めた人は豊臣秀吉でありましたので、秀吉とキリスト教の関係について、基本的なことを抑えておきたいと思います。

豊臣秀吉という人は、基本的に政治的で、極めて策略的な人です。ですから彼の基本姿勢は、いかなる宗教でも、天下統一の野望に役立つ限りは最大限に利用するけれども、それを妨げるようなものであれば叩き潰すというものです。彼は早くからキリスト教に対する警戒心を持っていたと分析されています。ですから信長に対して、「キリスト教を信じてはいけません、警戒してください」と警告していたようです。

秀吉は、キリシタンが多い九州を平定するまでは彼らを手なずけておいて、九州を平定した後には手のひらを返したように弾圧を開始しました。天下統一の過程で最後に残ったのは九州であり、キリシタン大名が九州には多いですから、これを手なずけて降伏させた後に初めて、キリスト教の弾圧を開始するわけです。これが1587年のことでした。秀吉がキリスト教を見るとき、長崎には既に教会領が存在していましたし、ポルトガル船の威容を見ることによって、宣教師たちが日本を侵略しようとしているのではないかとの疑念を強くしたわけです。キリスト教の背後にはポルトガルなどの西洋の勢力があるので、これが日本の天下統一を妨げる勢力になるのではないかと危惧したわけです。

その他にもいろいろな動機でキリスト教を迫害したのではないかと言われています。そのうちの一つが、キリシタンの多い有馬領で「美女狩り」が拒否されたということがあります。豊臣秀吉は非常に好色だったと言われています。ですから各地の家臣たちにどんどん美女を提供させたわけですが、有馬では美女たちがキリシタンだったので、それを拒否したというのです。それが秀吉からすれば、「女の分際でありながら太閤様の寵愛を拒絶するとは何事か!」と、怒りに触れたというのです。そのことがキリシタンに対する秀吉の反感につながったというわけです。イエズス会の宣教師たちはこのような解釈をしていたようです。

そして何よりも、高山右近という豊臣秀吉の側近が、キリスト教の信仰を棄てるように秀吉から説得されたにもかかわらず、棄教を拒否したという事件も、秀吉のキリスト教に対する反感を強めたのではないかと言われています。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

豊臣秀吉によるキリシタン迫害

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