いまさら聞けない「日本基督教史」

いまさら聞けない「日本基督教史」 第9回

天正遣欧少年使節①

text by 魚谷俊輔


キリシタン時代に日本国内でキリスト教が躍進する中で、日本からキリスト教の歴史上とても重要な使節団がヨーロッパに送られます。これが「天正遣欧少年使節」と呼ばれるものです。九州のキリシタン大名である大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として、4名からなる少年使節団が、日本からローマへ派遣されました。

驚くべきことに当時の日本人はローマまで行っているのです。これはイエズス会のヴァリニャーノという指導者の発案によるもので、大きく2つの目的がありました。

1つ目の目的は、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼するために、彼らを送ったということです。どういう意味かというと、「自分たちは日本宣教を始めました。一生懸命伝道して、こういう若いキリシタンの二世たちが生まれて、これが日本宣教の実績でございます。どうぞご覧ください」ということで、国王やローマ教皇に見せるわけです。日本宣教の実績を示すために彼らをローマに送り、それによって支援を得ようとしたというのが第一の目的です。

2つ目の目的は、日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させることによって、帰国後にその栄光と偉大さを少年たち自ら語らせることによって、布教に役立てたいという思惑があったわけです。日本においてはキリスト教はまだ少数派の宗教でした。そんな中で日本の少年たちにローマにおける本場のキリスト教文明を見せつけて、西洋文明の偉大さを見せつければ、この4人は完全に感化されて、キリスト教の証し人となって、その後の日本の宣教において大活躍するだろうと考えたのです。つまり、将来の日本のキリスト教を背負って立つリーダーとしてこの4人を育成したということです。そういう意図があって、わざわざローマにまで莫大なお金をかけて送ったということなのです。

当時「セミナリヨ」と呼ばれていたキリスト教の学校で、武士の子弟たち、いわゆる信仰二世たちが学んでいたわけですが、彼らの中から優秀な者がこの使節のメンバーに選ばれました。

天正遣欧少年使節

これが4人の絵ですが、左上が千々石ミゲル(正使)、右上が伊東マンショ(正使)、左下が中浦ジュリアン(副使)、右下が原マルチノ(副使)です。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

天正遣欧少年使節①

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