いまさら聞けない「神道の基礎知識」

いまさら聞けない「神道の基礎知識」 第15回

人間神②

text by 魚谷俊輔


御霊神とは、恨みを持って死んだ人物の祟りを鎮めるために祀るということで、その代表例はなんといっても菅原道真を祀った天満宮です。今回は菅原道真と天神信仰について説明します。

菅原道真は、845年から903にかけて生きた平安時代の貴族であり、学者であり、政治家です。菅原家は学問の家として知られ、道真の曽祖父の代から努力を重ね、政治の世界でも出世していきました。道真も幼いころから頭角を現し、やがて宇多(うだ)天皇の信任を受けて出世をとげていきます。彼は右大臣にまでのぼりつめるのですが、901年に突如として太宰府(だざいふ)の副官に左遷されてしまうのです。大宰府は九州に設置された地方行政機関ですから、明らかに出世コースから外されたと言えます。

実は、左遷の理由はよく分かっていません。醍醐天皇を廃位させる陰謀に関わったとか、宇田上皇と醍醐天皇の対立の巻き添えを食ったとか、道真の華々しい出世に対する嫉妬があったのではないかとか、諸説ありますが真相は分からないままです。とにかく彼は、左遷されてわずか3年後に亡くなってしまいます。

すると菅原道真の死後、京で異変が相次ぐようになったのです。909年には、道真の政敵であった藤原時平が39歳で病死しました。913年には、道真失脚の首謀者の一人が溺死しました。923年には、醍醐天皇の皇太子・保明親王が21歳で死去しました。

この時点で、醍醐天皇は道真を元の右大臣に戻し、名誉を回復しました。これは上記の悪い出来事が、道真の怨霊の祟りであることを公に認めた形になりました。ところが、それでも災いは止まなかったのです。925年には、保明親王の息子で皇太孫となった慶頼王が5歳で病死してしまいます。930年には、朝議中の清涼殿が落雷を受け朝廷要人が多く死亡します。そして醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御してしまったのです。これにより、道真が雷神を操っていると噂され、道真の霊と雷神が習合していくことになります。

987年には北野天満宮で勅祭(天皇の使者が派遣されて執行される神社の祭祀)が営まれ、「北野天満天神」の称が贈られ、道真に太政大臣の位が追贈されました。道真は、死後において官位の最高位にのぼりつめたことになります。こうして道真の霊は、神社に祀られただけでなく、天神や雷神と習合することによって、人々の信仰を集めるようになったのです。

その後、道真の霊は祟り神からむしろ善神へと変貌を遂げていくことになります。彼自身が無実の罪で左遷されたという理解から、冤罪に陥った人を救う「雪冤(せつえん)の神」になったのです。そして中世になると、天神は至誠の神、正義の神となり、国家鎮護の神として信仰されるようになりました。さらに、生前の道真が学問の人であったことから、「学神」になり、書道の神として、江戸時代に寺子屋で祀られるようになりました。それが近代に入ると、「受験の神」として信仰されるようになったのです。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

人間神②

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