いまさら聞けない「仏教の基礎知識」

いまさら聞けない「仏教の基礎知識」 第15回

聖徳太子と「南都六宗」

text by 魚谷俊輔


587年に蘇我氏が物部氏を滅ぼして、大和朝廷は本格的に仏教を受け入れるようになります。外来宗教である仏教が日本古来の宗教よりもはるかに高度で強力な宗教であることが分かると、豪族ごとの勢力に分裂していた当時の日本を統一するための力として、この仏教を用いようと試みるようになったわけです。大陸には最新の文化があり、律令制度があったわけですが、それらと一緒に仏教を統一国家のイデオロギーとして受け入れていったわけです。ですから、日本が最初に仏教を受け入れていった動機というのは、極めて国家次元の動機であって、国を統一するための新しい理念として受け入れていったわけです。このようにして、仏教を中心とした中央集権型の国家建設に着手しました。その主導的な役割を果たしたのが聖徳太子です。

聖徳太子は、推古天皇の摂政として蘇我氏とともに活躍した人物です。彼は、朝鮮半島から高僧を招いたり、遣隋使で留学僧を派遣したりして、仏教文化を日本に定着させようとしました。聖徳太子自身が非常に仏教を深く学び、仏教経典の解釈書を書いたり、寺の建立を積極的に行いました。聖徳太子が建立したお寺としては、法隆寺や四天王寺が有名です。また、有名な「十七条憲法」の背後には仏教思想があると言われています。

このように、国の柱として仏教が取り入れられて、やがて平城遷都が行われると、仏教の中心的な役割は「鎮護国家」、すなわち国を守り安定させるための宗教という意味合いが強くなっていきます。701年の僧尼令により、僧侶は鎮護国家を第一とする官僧になります。「官僧」とは、政府に雇われた僧であって、最初のお坊さんは国家公務員だったのです。国の安全を守るためにお祈りすることが仕事でした。当時、国家から正式に認められた「南都六宗」が日本最初の宗派として存在していました。これはいまのような信仰集団ではなくて、仏教の理論を研究するグループであったようです。この人たちの役割は、遣唐使などによってもたらされた経典を読み解き研究することであって、いわば大学の教授のグループのようなものであると同時に、国家の安泰を祈る役割も持っていました。華厳宗、律宗、法相宗、倶舎宗、三論宗、成実宗が「南都六宗」で、このうち最初の三つだけがいまも「奈良系仏教」として存在しています。その中で「律宗」というのが、日本に初めて戒律をもたらした鑑真という人が開いた、日本最古の宗派です。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

⑮聖徳太子と「南都六宗」

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